社屋を避難所として開放 地震に強い構造が守った(熊本構造計画研究所)

リスク対策.com 2016年7月号掲載記事

通常、土曜日は会社は休みだが、杉本氏が現地に到着すると、マネージャーなど数人が既に集まっていた。一方、東京本社にも同社副社長の澤飯明広氏を本部長とする災害対策本部が立ち上がり、テレビ会議システムをつなぎ現地の状況を伝えた。

同社の災害対応計画は、地震が起きた被災地以外の拠点に対策本部を設置し、被災地を支援する計画だった。「今回は熊本構造計画研究所が被災したので、東京本社に対策本部を設置して熊本を支援することにしました。安否確認、被害状況の確認、東京本社との情報共有など、やるべきことを明確にしておいたことは良かったです」と杉本氏は語る。

最初に取り組んだのが所員の安否確認だ。同社の安否確認システムは、一定震度以上の被災地にいる所員が能動的に被害状況をシステムに入力するいわゆる「プル型」。一斉にサーバーから配信をして回答を求める「プッシュ型」と違い、通信が混雑しても「被災地」から「非被災地」にあるサーバーに一方通行で入力するため混線の影響を受けにくいメリットがある。が、一方で該当地域にいる所員が手順などルールを理解していないと集計しにくいデメリットもある。前震では翌日までに全員の安否が確認できたが、本震では、10人程の安否がつかめなかった。安否を確認できない所員を現地でホワイトボードに書き出し、その人たちの自宅や携帯の電話番号を調べるのは東京本社が担当した。熊本では、その情報を元に電話やメールで実際に連絡をとるなどの役割分担を行った。「現地では、具体的な災害対応作業がありそれに追われます。込み入った情報の検索、整理、全社に向けた連絡などの作業は、東京の対策本部で実施してもらいました。これらの本社の支援が助かりました」と杉本氏は振り返る。被害がひどかった益城町には、所員2人が住んでいたが、2人とも無事が確認できた。

社内はパソコンが落下するなどの被害はあったが、心臓部であるサーバーは多少傾いた程度で致命的なデータの破壊は免れた。平時から東京本社のサーバーと同期をしてバックアップをしていることも安心材料となった。

17日(日曜日)になると、何人かの所員から、会社に泊まりたいという申し入れがあったことから、杉本氏は、即座に会社を避難所として開放することを提案。1つの会議室を2家族で使えるようにして、会社にあらかじめ備蓄してあったマットや毛布、乾パンなどの食べ物を提供した。周辺は翌朝まで断水したが、会社には8トンの貯水タンクがあり、その水で翌日までは十分に賄えた。

同社には、日常的にスポーツが楽しめるようシャワールームも設置されている。

「トイレやシャワーが使えることはとても感謝されました」(杉本氏)。

洗濯機と乾燥機も新たに購入し、シャワールームの前に簡易テントを張り、洗濯物が干せる環境を整えた。

社屋には、日常的にスポーツが楽しめるようシャワー室が設けられている。被災した社員のために洗濯機と 乾燥機も新たに購入。会議室には、あらかじめ備蓄していた防災用品や購入した水、食料、マットなどを運び入れ、簡易避難所として活用した

18日(月曜日)には所員の7割ほどが出社。小さな会議室を炊き出しの台所に変え、所員や家族に食事を提供した。東京本社からも5人ほどの交代要員が支援物資を持って現地に到着し、19日(火曜日)に杉本氏は東京本社に戻った。

所員には、財政的な支援も直ちに行われた。同社の服部正太社長が指示したもので、①熊本構造計画研究所に勤務している所員および協力会社の方への見舞い金を支給、②熊本に住む家族のもとに向かう往復の交通費、あるいは熊本の家族を呼び寄せる費用の負担、③熊本構造計画研究所勤務の所員に特別休暇を支給――の3つの措置がとられた。

杉本氏は、現地で対策を実行した感想として「臨機応変さが大切と感じました。計画として決めておいて動く部分もベースとしては大切ですが、その場の状況で判断することが非常に多いです。予算を伴うものもあるため、その都度、意思決定できる仕組みも必要でしょう。それから備蓄品や資材はできるだけそろえておくということ。電気が通じ、水が出たことがほんとうに助かりました。ライフラインがなかったら避難所にできません」と話している。

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